昨日はいい天気でした。季節的に運動会や体育祭が実施された学校も多かったのではないでしょうか? (おそらくは今もそうだろうけれど)運動会前には練習というものがあって入場行進から団体競技までずいぶんと練習を行った記憶があります。夏休みが終わったと思っていたら次は運動会の練習だもんね。やれやれ、と思っていました。
ところで現在の運動会や体育祭ってやはり9月に行うのでしょうか? 最近は5月とかに実施している学校も多いと聞きます。いずれにしても運動会なんて行事はただの見せ物ですよね。「児童・生徒たちは頑張っています。親御さん、見てください」的な。中には運動の得意な子供もいるだろうし、運動が苦手な子供もいると思いますが、最近は徒競走にも順位を付けないなんてことがあるらしく、一時期話題になりましたね。このへんの学校もそうなのかな? みんな平等、仲良く。結構。それで満足するならいんじゃないかなぁ、と思います*1。
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当ブログ管理人が小学生や中学生だったウン十年前は一位〜三位までが表彰の対象だった記憶があります。学力はともかく、運動神経は人並みだったのであまり運動会などというイベントは好きではなかった。もちろん、少年野球もやっていたしそれなりには違いなかったけれど、だから運動で身を立てるとか抜きん出て○○がスゴイとかいう特技を持ち得ていなかったので運動会前は憂鬱な気持ちがしたものです。一等賞欲しさに努力しよう、と前向きな気持ちにさえならなかった。
運動会や体育祭などというイベントに強制参加しながら気づいたのだけれど、ああいうイベントで一等とか目立って活躍する人って共通点があったように思います。
「そうかぁ、天は二物を与えることはないんだ」と。
そう思うと運動会や体育祭で一等とかトップとかになった人を見ると「よかったねぇ」と思えるようになりました。公立校の場合には小学校や中学校は地域の集団がこぞって入学するでしょ。だからいろんな児童生徒がいるわけで、いろんな分野でピンキリが出来るわけ。そうすると普段教室では目立たない子がかけっこがべらぼうに早かったり、マラソンで一位になったりするわけ。逆に教室で目立つ(勉強でも素行でも)子に限って、そういう隠れた才能(?)を持つ子を目の当たりにすると、その子に対する評価が一変したりする。何度かそういう光景を見て来た。それでなんか教室が一つにまとなるみたいな。・・・昔の話ですよ。今はどうだか分からない。
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「あ〜、青木って走るの速いね。運動部じゃないのに。すごいね」とか
「お、松井って見かけによらずすばしっこいなぁ」とか
「イチローってリレーのときは速いなぁ。チームワークだね」とか
「あら、大谷は、陸上部のジョイナーに勝ったよ」とか
中学に上がると、体育祭のときにはそういう目線で眺めていました。平生には見ることの出来ない才能が見られるのはこういうときしかないからね。体育祭などのイベントを客観的に眺めることが出来るようになってからは、参加するよりもむしろ参加する人を観察するために参加するみたいなスタンスになってしまっていました。そうやって眺めていると、マンガの世界のように「頭脳明晰」「運動抜群」「人格完璧」「ルックス最高」を兼ね備えた人はいないことに気がつきます。おもしろいね。人間界もバランスとっているんだ、とか悦に浸っていた記憶があります。
そういう意味では運動会や体育祭っていうのは「平生、日の目を見ないような児童生徒にも活躍する機会を与える」という趣旨で行っているんだとも言えそうです。
みんな平等だから?
うそだ、そんなの(笑)
みんな平等だと思っているのは学校の中にいるときだけ。
それに気がつくのはいつなんだろう? そう思うと今の時代の児童生徒は不幸極まりない。そういうことをちゃんと教育すべきだよね。
*1:もちろん皮肉ですけどね